現在、「個人情報が漏れる」という事件が大手企業などを中心に頻繁に起こっている。この「漏れ」た個人情報に含まれているもの、例えば名前などは、個人を表すものとして重要な意味を持つものであるといえるであろう。
しかし、同じ情報社会でも「名前」が個人を表すのに全く役に立たない状況が存在する。では、なぜ役に立たないのであろうか。ここでは、その状況に関して、インターネットの観点から考えていきたい。
確かに、匿顔コミュニケーション(注1・2)と言えるようなサイバースペース上でのコミュニケーションでは名前が大きな役割を持たざるを得ないことは明らかである。例えば、パソコン通信時代から使われてきたハンドルネームはその一例と言えるだろう。
だが、最近、名前を個人を表すためのものとしてではなく、ビジネス上の単なるツールとして用いるという現象が増加している。これは、出会い系サイトの業者において顕著に見られることである。業者は、ビジネスだということを意識させないために、差出人が「個人名」であるメールを送信して、親近感を持たせるようにしているものだと思われる。(注3)
このような状況に関して、「情報検索」という観点から主に次の二つのことがいえるであろう。
まず、我々の立場として、「情報検索」能力を用いて、そのメールが適切性を持ったものであるか否かの確認を行う必要がある。なぜならば、適切性の確認がなされない限りは「危険な情報」によって騙されうる可能性が十分に存在することは否定できないからである。また、そのために、特に欧米などで盛んな、「information literacy」教育を積極的に行う必要性があることを考慮しなければならないであろう。(注4)
次に、いわゆる業者の立場として、業者は「情報検索」技術を用いて、メールの送信先を見つけている。これは、ロボット型検索エンジンのようなシステムを用いてアドレスを拾うといったことが例に挙げられるであろう。このシステムは、携帯電話に関してよく言われる「文字をランダムに組み合わせ適当なアドレスを作る」方法より、送信先不明のアドレスが減少するため、ネットワーク資源をより効率的に利用可能である。しかし、さらにそのため、送信メール数が増えるという問題がある。(注5)そして、上述した「ツールとしての名前」数も、それに伴ってさらに増加する。
上記二点を見てみると、「情報検索技術の発達」→「情報の氾濫」→「高度な情報検索能力の必要性」の循環構造が分かる。ここには、名前が個人を表すものとして扱われる場合とは多きな違いが存在する。それは、氾濫が起こっている点と、さらにそれによる高度能力の必要性である。データ性の場合は、性別ごと、世代ごと(注6)などに分類し、条件を絞って検索しやすいのである。しかし、ツールとしての場合は異なる。 目的が異なるためである。
このことを考慮して、「名前」の有用性、非有用性という点から、異なる性質の存在を示すことができる。
そして、そのことより、「名前」といった情報が個人を表すのに役に立たないといった状況が存在することがあるといえよう。
(注1)参考 『ネイチャーインタフェイス』[特集] 匿す顔、名無しの顔, 原島博, 2001
http://www.natureinterface.com/j/ni04/P016-021/
アクセス日:2005年1月6日
(注2)匿顔による利点もあるが、本稿で扱う内容とずれるため、ここでは考慮しない。
(注3)個人名が出てくるメールの例として、hyokiのブログ。の9月15日、10月17日、11月13日などの内容を参照されたい。
(注4)参考 山内祐平著『デジタル社会のリテラシー』岩波書店, 2003
(注5)ここで言う「送信メール数」とは、送信先の数ではなく、ある有効メールアドレス当たりの送信数を指す。
(注6)例えば、カタカナ二、三文字の名前が年輩女性に多いといった場合がある。ただし、これは例外があるため留保が必要である。